ヘルマン・ゲーリング
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ヘルマン・ゲーリング(1893年 - 1946年)はナチス・ドイツの№2。アドルフ・ヒトラー総統に次ぐ国家元帥である。
[編集] 経歴
- 1893年、ドイツ帝国バイエルン州ローゼンハイムで西アフリカ総督の息子として生まれる。子供時代は伯爵家のお城に住んでいたらしい。
- 1901年、ベルリンのリヒターフェルデ陸軍士官学校へ入学。
- 1911年、卒業。ベルリン社交界デビュー。
- 1914年、第一次世界大戦勃発。歩兵科から航空隊へ志願。
- 1918年、18機撃墜の功により皇帝から勲章を授与。
- 1919年、ドイツ降伏。敗戦後、スウェーデンで民間機パイロットや曲芸飛行をして食いつなぐ。この頃、貴族の未亡人カリン・フォン・カンツォフと恋愛関係に。
- 1922年、ドイツに帰国して結婚。この年、初めてヒトラーと出会い、ナチス党へ入党。
- 1923年、ミュンヘン一揆失敗。亡命先のオーストリアで治療を受けた際に使われたモルヒネが止められずヤク中になる。
- 1927年、奥さんの故郷(スウェーデン)で養生していたが、恩赦が出たためドイツへ帰国。大多数が庶民出身者であるナチス党と上流階級・財界人とのコネを構築。メッサーシュミットなどの大企業がナチス党に献金するようになり、ヒンデンブルク大統領とヒトラーの会談も実現した。
- 1928年、国会議員に初当選。
- 1931年、奥さん亡くなる。
- 1933年、ヒトラー内閣成立。国務大臣を拝命。左翼勢力を弾圧。
- 1935年、ドイツ空軍総司令官を拝命。女優エミー・ゾンネマンと再婚。権力への欲望を強め、国防大臣と陸軍総司令官の席を狙って、ハインリヒ・ヒムラーやラインハルト・ハイドリヒらと協力して、二人を失脚させるが、その席をヒトラーに横取りされる。
- 1939年、ヒトラーもさすがにマズイと思ったのか、ゲーリングを第一後継者に指名。同年、第二次世界大戦勃発。ワルシャワ爆撃や占領したポーランドへの経済政策などで功績を上げた。
- 1940年、国家元帥に就任。しかし、その後のバトル・オブ・ブリテンやスターリングラードの戦いでボロ負けし、権威は失墜。引きこもりがちになり、美術品コレクションにはまり出す。
- 1945年、ドイツ降伏。ラートシュタット郊外にて投降しようとしてアメリカ軍に捕まる。アメリカ側の記録によると、この時のゲーリングは「ただのヤク中のデブ中年」に過ぎなかったという。ニュルンベルク裁判では無罪を主張したが判決は死刑。それよりも本人は処刑方法が銃殺刑ではなく絞首刑だった事の方がショックだったらしい。
- 1946年、処刑当日に獄中で服毒自殺。享年53歳。
[編集] 人物
- 子供時代お城で暮らしていただけあって、かなりの貴族趣味。服装に関してもこだわりがあったのか、一人だけオリジナルデザインの白い軍服を着ていた。
- 家はサウナ、映画館、トレーニングジム(無意味)などのある、健康ランドのような豪邸だった。
- ペットはライオンの「ツェーザー」。
- でかい鉄道模型を持っていた。
- 権力の中枢から外されると、戦争中にも関わらずパリへ行ってはユダヤ人からパクった美術品をネコババし、オタク仲間のベニト・ムッソリーニと交換したりしていた。
- 女性関係に関しては奥さん一筋で、浮いた噂は無かった。この辺で問題の多かったヨーゼフ・ゲッベルスとは好対照である
- モルヒネ中毒でいつも挙動不審、しかも傲慢な性格だった。しかし、ニュルンベルグ裁判時には、まぁ色々あってモルヒネ中毒と肥満は解消され、戦争中の無気力ニート状態から一転して、今までの彼とは別人であるかのように堂々と振舞い、自信満々で勝利者のように堂々としており、死刑宣告を受けても微動だにしないほど落ち着き払っていた。そんな事もあって支持者からは「太った鋼鉄」という、誉めてるんだか馬鹿にしてるんだか分からんアダ名で呼ばれた。