徳川家康
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
徳川 家康(とくがわ いえやす。1542年~1616年)は、徳川王朝の開祖である。
目次 |
[編集] 各界からの語録
~ 徳川家康 について、織田信長
~ 徳川家康 について、忍者
~ 徳川家康 について、石田三成
~ 徳川家康 について、石川数正
~ 徳川家康 について、徳川慶喜
~ 徳川家康 について、幸徳秋水
~ 徳川家康 について、ダグラス・マッカーサー
[編集] 血族
松平清康の孫、松平広忠の嫡男、生母はお大の方(伝通院)。そっくりさんの影武者が沢山いたことで知られており、あまりにそっくりさんなため、クローン技術を自家薬籠中のものにしていたのではないか、とさえ言われている。死んで影武者と入れ変わった、という説が複数提唱されており、それほどまでに死んで欲しいと恨まれていた事が伺える。天下人は大変だ。
実家の松平氏は、新興の土豪だったのだが、名義上、源氏の末裔じゃないと征夷大将軍にはなれなかったので新田義貞の末裔を僭称した。他にも源氏はいるのになぜ義貞のような負け犬の末裔を自称したのか、良く分からない。多分、家康は義貞を源義経に匹敵する名将だと考えていたのだろう。戒名は脱糞院強烈臭戦居士。
[編集] 概要
最終的に天下を取ってしまった所為で、天下を取れなかったほかの大名並びにその大名家の信者(戦国オタク)達から不倶戴天の敵として憎まれ、今日に至るまで恨み言を吐かれている、大変ちょっとかわいそうな人である。特に豊臣秀頼とその母淀殿を殺した事は最大の悪事として主に大坂人からバッシングされており、ウィキペディアにおいてもその是非を巡って殺伐とした議論が繰り広げられている。秀頼、淀殿、真田幸村、直江兼続、島左近、石田三成、伊達政宗、上杉景勝など、最も恐れた人物が複数いる上、その数が勝手に増えていくことでも有名。最近ではこれらに山内一豊や前田利家らも加わり益々の大盛況である。具体的に恐れられた人物は下段参照。
埋蔵金をどっかに隠したといわれているが、これは日光東照宮造営などの散財によって財政危機に陥った三代将軍徳川家光が現実逃避の為に、「権現様が財政危機に陥ったときの為に何処かに埋蔵金を隠している」と思い込み、土井利勝ら幕臣から末端の旗本に至るまでありもしない埋蔵金の在り処を聞きまわり、やがて日本中に面白おかしく脚色されて伝播し、最終的に桶屋が儲かったのが発端であり、実際は埋蔵金など1ドルも隠していない。
家康を代表する言葉に「泣くまで待とうホトトギス」というものがあり、現代の自宅警備員達は、この言葉を座右の銘に、何もアクションを起こさなくてもいつか俺も家康みたいに天下取れるはず、と雌伏の時を過ごしている。息子の徳川信康や結城秀康の器量を恐れ、死に追いやったり冷遇するなど親としては落第点を押される駄目親父であるが、幼い頃父と死に別れ、父親と言うものがどういうものか実感できなかったのでしょうがない、かもしれない。
「狸親爺」「みみずく野郎」などと罵られる事もあるが、狸以上に計略は上手かったと思われる。また妖術の使い手であり地蔵に化けることが出来た。我慢強かったのもこのためである。現在日本に偏在する地蔵は全て徳川家康が敷設したスパイ衛星であり、もし地蔵の半径300m以内で徳川家の悪口やタブーを言った場合地蔵の目からレーザーキャノンが照射され焼殺されるので絶対言わないように。
[編集] 生涯
[編集] 忍耐?の少年時代
家康の父広忠は女たらしでギャンブルに狂い借金を重ねるどうしようもない駄目人間であり、コンドームもつけずに手当たり次第に女とセックスしたため250人も落胤を生んでしまった。広忠本人も斯様に沢山の子供を作ってしまったことが信じられず、まるで竹取物語のような奇想天外な出来事であったことから落胤全員に竹千代と命名した。だが浮気に激怒した広忠の正妻伝通院の兄水野信元が織田家に寝返り、その上弄んだ女達への慰謝料や250人の息子の養育費などでただでさえ火の車だった松平家の財政は底を突いてしまい、広忠は借金の担保として落胤の内100人を今川家へ差しだすことになったが、今川家に引き渡される最中その内25人が織田信秀に強奪され、20人が途中で遭難したり崖から転落したりして行方不明になったため最終的には55人しか残らなかった。ちなみに信秀に強奪された25人の落胤は屠殺場でミンチにされ織田家の皆さんが美味しく頂きました。
何はともあれ担保と言う便宜で落胤の半分近くをうまいこと処分した広忠であったが、それでもまだ100人以上の落胤が残されており、正室伝通院との間に子が生まれなかったこともあって松平家はお家騒動に発展する。この御家騒動のドサクサに紛れて父広忠は家臣の岩松八弥に殺されたという。殺害の動機は無論、女たらしの広忠が岩松の妻を寝取った事が原因だが、蘆名盛隆のように男色のもつれからアッー!されたとも。当主広忠が死んだ跡に残された150人の竹千代は生き残るために互いに殺し合い、わずか1ヶ月で三分の一の50人にまで減少した。この混乱に乗じた織田信秀、今川義元が三河に干渉し、落胤達は今川につくか織田に付くかを余儀なくされた。やがてこれらの竹千代達は三河の土豪達を糾合して独立勢力となり、三河には無数の松平家が群雄割拠するようになる。
一方、今川家に借金の担保として人質に出された55人の竹千代達は、今川義元、太原雪斎の薫陶を受けてすくすくと育ったが、その過程で10人が脱走、10人が雪斎に「見込み無し」と看做されて処分され、女湯を覗いたスケベな竹千代5人が義元ママの寿桂尼直々に金属バットで撲殺され、その後も松平家の跡継ぎを巡っての内ゲバで殺戮の応酬が相次ぎ、最終的には一人しか残らなかった(以上が徳川家康複数説の真相である)。無事バトルロワイヤルを生き延びたこの竹千代はやがて義元から一文字を貰い元信、次いで元康と改名する。
家康は義元から粗略に扱われ、今川の家臣から虐められて鬱屈した青年時代を過ごした、などと言われているが、実際は大事に扱われ、結構自由に、放縦に過ごしていた。義元も、家康の利発さを大層気に入り、実の息子のように接したという。一説に寄れば、義元が家康を大事にしすぎるので、息子の今川氏真が劣等感に苛まれてグレテしまい、義元の死後、今川家があっというまに瓦解する原因になったという。
[編集] 信長のパシリ時代
そういうわけで、今川家から多大な恩顧を受けていた家康だが、その今川家が桶狭間の合戦における義元の頓死で傾くと、あっさりと離反して仇である織田信長に追従した。その証として元康から家康に改名、今川家への敵対姿勢を鮮明にした。せっかく貰った名前の一字を外すとは「いい迷惑でした!!」と、そのエライ人との関係解消を意味する。見方によっては不義理と看做すことが出来る。
だが、戦国時代において「寄らば大樹の陰」は生き残るための常道である。昔の恩義だの友情だの、形式的なことばかり重んじてたら滅亡へと一直線である。家康の鞍替えを「不義である」と弾劾するのは、現代人の傲慢に過ぎない。
信長に与してからは、彼が本能寺の変で頓死するまで、コバンザメのようにへばり付いていた。信長からも、東の脅威である武田信玄に対する防波堤として機能するので、国力が対等でもないのに「盟友」として厚遇されたという。
一応、美談に聞こえるが、厚遇に胡坐をかいてると後ろからブッ潰されるので必死にならざるを得なかった。というのが、真相に近いのかもしれない。
家康前半生の最大の敵は、甲斐の武田信玄であった。家康は、信玄に幾度となく煮え湯を飲まされてきた。最も痛手を被ったのが、三方ヶ原の戦いである。
[編集] 三方ヶ原の惨敗、そして脱糞
この時、家康は信玄が胸を患う重病を抱えている情報を得て、躍起になっていた。幼なじみの織田信長は、「お前は俺と違った意味で短気すぎる。いいな?信玄が来ても無視しろよ?突撃すんなよ!」と釘を刺しており、援軍の武将・佐久間信盛からも宥められる始末だった。しかし、生来短気で剛毅な家康は、山県昌景の挑発に乗ってしまい、頭に血が上って突撃を敢行、案の定、惨敗した。信盛は家康のあまりの軽率かつ浅慮な突撃に呆れて戦線離脱してしまった。
この時、家康は恐怖のあまり脱糞したことはあまりにも有名である。当時、オムツなんて便利なもんはなかったので、下袴から鎧まで、文字通りくそみそになってしまった。城に帰還し、家康の醜態を見た部下達は、笑いを堪える事ができなかった。家康は赤面して「これは焼き味噌だ!」と見苦しい言い訳をし、さらに焼き味噌であることを証明する為部下の石川数正にその糞を食わせて「美味い焼き味噌です」と言わせた。ちなみにウンコを口にするなど人間としてとても考えられない行為であり、石川数正は人類最初にウンコを口にした人間である。これ以降、調子にのって真似をする馬鹿が大勢出た結果「カレーとウンコ問題」という珍問答が生まれている。また数正はこの事を根に持っており、後年秀吉の下へと出奔した。
[編集] 妻子を殺す
家康の正室築山御前は、今川一族の生まれであった。家康が今川を裏切って織田に鞍替えして以降、不和が続いており、家康も家康でウザイから始末したいと考えていた。この築山御前との間に、長男徳川信康がいた。1578年、家康と酒井忠次を筆頭とする徳川家臣団は、築山御前は武田勝頼と(性的な意味で)内通しているとんでもないビッチだという口実をでっち上げ、築山御前を殺害した。母親が殺された事を知った信康が激昂して暴れだしたので、服部半蔵に頼んで、信康も殺した。信康については聡明な人物だったも、乱暴で残虐な人物だったとも言われており、良く分からない。真偽は不明だが、後年、家康が信康が生きていればもっと早く天下取れたなどと愚痴っていることから、そこそこ能力のある人物だったこと、家康は信康については築山御前ほどの悪感情を抱いていなかったことが推察される。
この事件は、家康の人生において汚点であった。後年、家康の知恵袋として辣腕を振るった本多正信は、何とか正当化できないか思案し、その結果、信長が築山御前と信康を殺せと命令した、と歪曲した。信長のパシリであった家康だが、この頃は既に天下人となり、反面織田家は没落していたので、何ら憚るところはなかった。さらに、正信は家康から非難の矛先を叛けるため、酒井忠次が信長に築山御前と信康に謀反のおそれありと讒訴した、という「捏造の補強」までした。忠次の子孫達は先祖に汚れ役をかぶせた正信を怨み、後年、正信の息子本多正純が失脚する原因となった「宇都宮城釣り天井事件」のでっち上げに、土井利勝らとともに荷担して尽力したという。
その後、小牧長久手の戦いで豊臣秀吉を痛めつける。ヤーさんの家康にビビったファンドマニアの秀吉は手段を選ばず母と妹を人質に差し出して「どうか、僕と仲良くね♪」と嘆願され、和睦した。その後江戸に移ると伊達政宗と義兄弟の契りを結んだ。同時に秀吉に隠れて淀君と密通し、その間に豊臣秀頼が産まれたらしい。関ヶ原の戦いで友人の元忠を殺した石田三成に向かって「これは正義の戦いである。悪の権化・羽柴家と彦右衛門(元忠)の仇討ちよ!!」と言って勝利し江戸幕府を開いた。
[編集] 三方ヶ原の戦いの珍エピソード
- 三方ヶ原で敗北し、逃亡する最中に呑気に団子屋で休憩していたら、敵軍が攻めてきたため再び逃亡。しかし団子の代金を払わず食い逃げしたため、オリンピック選手並の足を持つ団子屋の婆さんに追い掛けられ、100mほど先で捕らえられ、代金と迷惑料を支払わされた。現場には「小豆餅」「銭取」という地名が残っている。
- 腹を叩くと太鼓のようにポンポコ音が鳴った。祭りの際などに家康は自ら腹の太鼓を叩いて演奏したという。なお、浜松には三方ヶ原の戦いの際、浜松城で酒井忠次が打ち鳴らした太鼓は、実は家康の腹であったという伝説が残されているらしい。
- 武田信玄にあこがれており、自己満足のために徳川四天王とか徳川二十なんたら将などを生み出し、更に武田家の旧家臣や武具などを火事場泥棒のように集め回っていた。この事が一部で「家康は信玄の隠し子」というトンデモ話が語られる原因となった。
- また、武田家所縁の女、特に信玄の娘に対する病的かつ偏執的な萌え属性があり、一説では、夫・穴山信君を亡くした見性院の生活を援助したり、八王子のある寺にに松姫を引き取ったり、上杉景勝討伐計画を企てた最大の目的は、共に信玄の娘である見性院・松姫・景勝夫人菊姫を
全部俺の嫁自分の側室として手に入れることだったと言われており、それに関連して穴山信君謀殺はその夫人である見性院を横取りするため、本能寺の変の際に織田信忠を見殺しにしたのはその元婚約者の松姫を横取りするための家康の謀略である疑いが強いとする説もある。しかし見性院・松姫は夫(元婚約者)の死後間もなく「夫(元婚約者)と一族の菩提を弔うため」と称して出家したため、この家康の企ての中で唯一成功したのは、関ヶ原の合戦後に「改易」と称して菊姫の身柄を景勝から横取りしたことのみであった。 - しかし家康が菊姫を
俺の嫁自分の側室にすること自体は1604年に菊姫が自殺したため頓挫した。菊姫が自殺したことは、いずれもアンチ景勝のフラッグシップ的な位置に立つ轢死化歴史家楠戸義昭・花ヶ前盛明らの著書によってフェミナチ主義者やアンチ景勝などのコミュニティー内で非常に有名だが、自殺の理由は楠戸・花ヶ前らが頻繁に主張し続けているように「自分の留守中に夫がどっかの娘を妾にして孕ませたから」ではない(そもそもこの子作り用の妾を夫の元に強引に捻じ込んだ仕えさせた首謀者は、他ならぬ菊姫本人である)。実際には関ヶ原の合戦後に家康の元に身柄を召し上げられて監禁された菊姫は、家康から毎日のように様々な禁則事項ですやチョメチョメでこれはやばいな強制猥褻や痴漢行為や性的嫌がらせを再三に渡って執拗に加えられ続けると同時に、「ワシの妾になれ」「ワシとアーン♥♥しろ」との強要も併せて執拗に受け続けたため、最愛の夫・景勝に対する貞操の最後の一線を文字通り「死守」し、かつ貞操を完全に守り切れなかったことを夫に対して死をもって詫びるため自殺したのである。
[編集] その他のエピソード
- 少年時代、酔っ払うと変態になる義元の趣向で公衆の面前でちんぽをさらしての放尿を強制されたことがある。ちなみにこの逸話は、後のアニメ「少年 徳川家康」NHK大河ドラマ「徳川家康」においても忠実に描写されたため、視聴者の猛烈な抗議を招いた。今じゃとても放送できないよね。
- 元来家康は熟女・人妻萌え属性だったが、なぜか晩年には美少女ロリータ萌えに改宗し、長き戦争にも参加している。家康をロリ萌えに目覚めさせたのは、一時期家康と援交関係にあった朝鮮人の美少女侍女・ジュリアおたあとも言われているが、真相は不明である。
- 住居も食事も質素…と言うよりはむしろ貧乏性の人であった。
- 医者が嫌いと言って自分で薬を調合してみごと病気を治した。その功績を認められ、現在ではホグワーツ魔法魔術学校の魔法薬学教授をしている。
- 典型的な読売ジャイアンツファンであり、大坂(阪神タイガースファン)の人間をめっぽう嫌っていた。それが大坂冬の陣の原因となり、伝統の一戦を創った。
- 何者かがタイのてんぷらに混ぜた毒で死んだという説がある。また密かに亡骸を鳥に食べさせたともされている。
- 胃がんによる病死ではなく銃殺された、もしくは女剣士に斬殺されたという説もある。
- 影武者がいて、本体は関ヶ原または大坂で死んだらしい。それ以降の家康は影武者が成り変った。
- 「岡崎の宿無し」時代に「なんだか、気分が悪いな!」と言っては今川氏真、さらに孕石主水をボコボコにしたことがある。ちなみに徳川御用達の歴史書ではこの事実を隠蔽し、逆に氏真や孕石にいじめられていた事にされた。これを鵜呑みにした人々は「神君は忍耐強い」と思ったらしい。
- 祖父松平清康譲りの柄の悪さ、マフィアのボスのような要素を持っていた。そのヤンキー的な性格が息子の徳川信康、結城秀康、松平忠輝、徳川頼宣に受け継がれた。
- 家臣の大賀弥四郎(大岡忠相の祖?)が武田勝頼のおホモ達だった真田昌幸と内通し、謀反を企んだ。これを知った家康は激怒し、弥四郎を鋸挽きで処刑した。それ以後、昌幸・信繁(幸村)父子を毛嫌うようになる。
- 彦右衛門、鬼作左、平八郎、小平太、万千代らとよく喧嘩をするほど仲が良かった。
- 実は劉備の再来とされ、「今玄徳」の異名をもっているらしい(福耳の特徴などetc)。
- 秀吉に隠れて、淀君とアーン♥♥して、生まれたのが秀頼であることは誰もしらない。そのためかNHK大河ドラマ「徳川家康」において、家康は大阪夏の陣で本当は淀君と秀頼を殺したくなかったという事にされた。その為アーン♥♥し過ぎるのは良くないと言う風習が出来た。
- 実は新田義貞の(血筋が遠い)いとこの世良田経広が家康の先祖なんだとか(その資料が発掘されればいいね)。
- 日本初のバレーボール選手でもある。所属チームは徳川バクフス、背番号は1、コートネームはヤスであった。[1]
[編集] 子供達
[編集] 息子
[編集] 娘
[編集] 落胤とされる人物
まだ増える可能性もある。
[編集] 家康が最も恐れた人物
まだ増える可能性もある。というかゼッタイ増える。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
- スカトロ
- ウンコの力
- 江戸幕府
- 三英傑
- 滝田栄 - 家康を最も上手く演じた俳優
- 津川雅彦 - 家康を最も上手く演じた俳優その2
- 西田敏行 - 家康を最も上手く演じた俳優その3.最も恐れた人物が何人もいるのと同様、最も上手く演じた役者が何人もいるのも家康の特徴である。
- トヨタ自動車 - 現代の徳川家康。日本だけでなく世界の天下を同じ西三河出身でとった。
- へうげもの - 劉備タイプの家康が登場している。
- 山岡荘八 - 上記の劉備タイプの家康を書き記し、ベストセラーにした功績は大きい。
- 横山光輝 - 上記と同様。
- 司馬遼太郎 - 信者曰く、最も客観的、俯瞰的に徳川家康という人物を評価できる男らしいが、どう見てもTDNアンチです。本当にありがとうございました。
- 三河人
| この項目「徳川家康」は、歴史に関連した書きかけ項目から歴史に残る記事に進化しなければならない。歴史は今作られている!君の名をこの記事(の履歴)に刻むのだ。 (Portal:スタブ) |