泉鏡花
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泉鏡花(いずみ きょうか、一八七三年十一月四日 - 一九三九年九月七日)は、明治から昭和にかけて活動した小説家で、江戸風の幻想文学の大家なり。
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泉鏡花、本名鏡太郎というは、加賀藩で彫金と象牙の細工する人の家にて、今で言う石川県の金沢の、下新町にて産まれ出たる。加賀藩御手役者葛野流大鼓方、中田万三郎豊喜の末娘で、江戸の生れの
九つで母亡くなりて後、京に上って、かねてより崇拝しておった尾崎紅葉が宅に居候したるが十七の時。内弟子となりて、玄関番する。十九にて、筆名、
「食う物食って、
それから焦って焦って、やっと書きたる物語、田岡嶺雲に絶賛さる、その題『外科室』。島村抱月などは、観念小説とか言うがな、詰る所、患者たる夫人が描写の大いに官能を刺激したる故の誉め言葉じゃ。斯くして二十二にして人に認められし物書き泉鏡花、翌年一家構えて間もなく再び新聞連載、益々新鋭にして、勢いの甚だしい。
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大いに筆が乗り、濫作すること凄まじき。二十六の年初め、呼ばれたる宴会で見知りし芸妓、名を桃太郎。それが顔の頭に焼きついて離れんことよ、着物の下のふっくりとした
二十九にして、胃病癒すとて移りし先に、手伝いに来た女は、なんと驚くまいことか、我が煩いし桃太郎。芸妓をやめて名を伊藤すず、来る日も来る日もかいがいしい世話振り、ふとした弾みに手が触れて、見詰め合う目に映る、その声、その呼吸、その姿、その声、その呼吸、その姿。何時しか女の衣紋は崩れ、露わになりたる肌は練絹のよう……。
三十にして、すずとの同棲叶い、毎日のように乳繰りおうて、鬱陶しき事この上なければ、しびれ切らした紅葉いわく、
「芸者なんぞに
鏡花嫌々すずと分かれるも、奇しくも同年紅葉亡くなり、しめたッとばかりに結婚、揃いの腕輪など作りて、夫婦仲真に良し。
尾崎が葬式で、門下生代表として弔辞を読む。尾崎門下は小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など居りしが、一同、いいと歯
幼き頃よりの潔癖未だ直らず、
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『
芥川龍之介には良く誉められ、親しく思ってもおったのじゃろう、快く引き受けた弔辞の文句、「
関東大震災で火の怖さを思い知ったものの、酒や食物を炙る癖直らず。全集の刊行をまかせて、物書きつつも物語は前より大分減って、能登、熱海などにてふらふら遊び、紀行文の類多し。
熱海で体調崩れて病に臥すもなお書き、昭和十四年七月、いよいよすぐれず、医者殿が言う、肺腫瘍なり。九月の七日、帳面に、「露草や赤のまんまもなつかしき」と書き付たるが最期、はたと息が止まった。―
文体の古臭ければ、少しく不遇なる時もあれど、美しく優しき妻と、平穏、潔癖なる生きざまを貫きたる、真に似つかわしきかな。加えて、額にふんわりとうち掛かる、櫛の入りし前髪の、老いるに従い明らかに後ろへ下がりたるが悲しき。